10/05/2021

志手界隈案内➃桜ケ丘聖地その2

 シベリア出兵、ユフタの戦いとは?①


 
 
桜ヶ丘聖地(旧陸軍墓地)のすぐ近くにごく小さな丘があります。その上に大きな石碑が立っています。大分市の中心部に向いている方が表でしょう。こちらに「田中支隊記念碑」と彫ってあります。この字を書いた人物は「田所成恭」とあります。石碑の裏側に回ると「昭和8年2月25日」「連隊長田所成恭」の文字が見えました。

 この記念碑は1933(昭和8)年に建てられたようで、建立から90年近くが経過していることになります。

  長い間風雨に晒されてきたせいでしょう、赤い丸印で囲ったところの文字は読みづらくなっています。

 ところで、この大きな記念碑は「誰が」「何のために」建てたものだったのでしょうか?

 答えは、日本のシベリア出兵で、ロシア・シベリアに赴き、そこでの戦闘で戦死した大分の将兵などを慰霊するため、当時の大分連隊の責任者が建てた、ということです。

 
 左は慰霊碑が建つ2年前の新聞記事です。1931(昭和6)年2月27日付大分新聞(赤線は筆者が引きました)。記事は戦死者の法要での田所成恭大佐の挨拶を紹介したものです。

 田所大佐はシベリア出兵当時の陸軍歩兵第七十二(大分)連隊のトップでした。記事は、シベリア戦没者の13回忌の場で、田所大佐が遺族などに、戦死した田中中佐以下300名の英霊をまつる碑を建設することを誓った、と書いています。

 「田中中佐以下300名」とは1919(大正8)年2月25日から26日にかけてシベリア・ユフタ付近の戦闘で全滅した田中支隊のことです。

 記事の前段で、田所大佐は「シベリア戦戦死者は一時無駄死のように伝えられたこともあったが、決して無駄死ではない」「(今は)尊敬されています」などと語っています。

 田中支隊はなぜ無駄死と言われたのか。田所大佐らはその名誉回復のために何をしたのか。記念碑に込められた意味は。ちょっと経緯を探ってみました。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)


 出兵宣言と同時にシベリアへ

 

 右の新聞は1918(大正7)年8月4日付大分新聞です。一面トップの見出しが「帝国出兵宣言」。当時の日本政府が米国などと共同歩調を取り、ロシア・シベリアに派兵すると宣言しました。

 当時のロシアは社会主義革命の混乱の中にあり、その混乱に乗じて策動するドイツの勢力をロシアから駆逐し、ロシアの速やかな秩序回復に協力するというのが日本政府の建前でした(1918年は第一次世界大戦のさなか。第一次大戦では日本は日英同盟を理由にドイツに対して宣戦布告。ドイツは敵国との位置づけでした)。

 ロシアとロシア国民を救うのが派兵の目的と日本政府はうたい、先陣を切ってシベリアに派遣されたのが陸軍第十二師団でした。8月2日の出兵宣言と同時に第十二師団に動員令が発令されました。

 小倉(北九州市)に司令部を置く第十二師団を構成するのは第四十七連隊(小倉)、第七十二連隊(大分)、第十四連隊(小倉)、第二十四連隊(福岡)の4連隊でした。小倉の連隊が先にシベリアに渡り、大分連隊がウラジオストクに上陸したのは9月初頭でした。

 (注)軍隊は複数の小隊を集めて中隊、複数の中隊を集めて大隊、複数の大隊が集まって連隊と組織化されていきます。第十二師団では第四十七連隊と第七十二連隊で第十二旅団、第十四連隊と第二十四連隊で第三十五旅団をそれぞれ構成。小隊-中隊-大隊-連隊-旅団-師団という縦構造を形成していました。

 日本はロシアで起きた革命が朝鮮半島などに及ぶことを懸念し、ロシアの反革命勢力を支援する形で、シベリアに大規模な兵力を展開し、「過激派」と呼ぶ革命勢力の掃討作戦を進めました。

 田中支隊が全滅した1919(大正8)年2月のユフタ付近の戦いもその一環でした。

 大分連隊が他の連隊と交代してシベリアから撤収するのは同年6月です。日本のシベリア派兵はその後も続き、ロシアの内戦に引きずり込まれる形で、駐留は長期化し、撤退の機会を見失う結果になりました。

 半減した兵力 凱旋帰国と過激派蜂起 


 さて、田中支隊の戦いについて書く前に、もう一つ説明しておかねばならないことがあります。

 出兵宣言とともに日本がシベリアに送った兵力(非戦闘員を含む)は7万人を超え、その突出ぶりが目立つことになります。日本政府は日本に警戒心を抱く米国を意識し、現地兵力の削減を図ることにしました。

 出兵宣言から3か月後の1918(大正7)年11月に約1万4000人、翌年の1919(大正8)年1月から2月にかけて約2万3000人の削減を実施したそうです。大分連隊も半減に近い人員になりました。

 削減の対象は予備・後備役です。兵役を終えて一定の期間は、有事の場合に軍隊に召集されることがあります。シベリア出兵でもそうでした。シベリアの兵力削減では基本的に予備・後備は帰国させ、現役兵を残しました。大分連隊の予備・後備兵は1919(大正8)年2月に大分に戻りました。


 

 上はいずれも大分新聞の記事。大分連隊の帰還は新聞で連日のように報じらました。

 一方、日本が兵力を削減する中で、日本が過激派と呼ぶ武装勢力・非正規軍(パルチザン)の動きが目立つようになってきます。

 左は凱旋部隊の大分帰還を報じた大分新聞(2月8日付)から1週間後の2月15日付の大分新聞です。

 2月11日のインノケンチフカ付近の戦闘で四十七連隊の将兵が死傷したことを伝えています。中津出身の大尉が負傷したことが見出しの一つになっています。

 ちなみに大分県では北・西部出身者は四十七連隊に入隊し、中・南部出身者は七十二連隊へと二つに分かれていました。七十二連隊には大分県のほか、熊本、宮崎両県、さらに沖縄県の出身者も含まれていました。
 

 過激派掃討を命じられ 極寒の鉄路を西へ


 さて、下の地図は、国立公文書館アジア歴史資料センターのホームページからダウンロードした資料に筆者が手を加えたものです。

 大正7(1918)年11月8日時点の沿海、黒龍両省における第十二師団の要員配備図です。アルファベットのTを横にしたような線は鉄道だと思われます。縦の線と横の線がぶつかったところがハバロフスクでしょうか?

 地図の一部に筆者が赤線を入れました。赤い四角で囲ったところがインノケンチフカです。新聞報道であった過激派との戦闘があった場所です。そこから西にブラゴヴェシチェンスクがあります。赤い線を引いています。ここに山田支隊が陣を張っていました。

 山田支隊のトップは山田少将。山田少将は第十二旅団長でした。第十二旅団は前に書きましたが、大分(第七十二)連隊と小倉(第四十七)連隊で構成しており、山田支隊長は大分連隊長の田所大佐の上官となります。

 過激派の活動が活発になったのが黒龍(アムール)州内でした。そこで、ブラゴヴェシチェンスクにいた山田支隊長は、過激派掃討のために、ハバロフスクなど沿海州に展開していた大分連隊に増援を要請します。


 大分連隊の陣中日誌と、増援部隊となった大分連隊の第三大隊の陣中日誌で当時の動きを追ってみます。

 (注)大分連隊の組織について少し説明します。大分連隊は連隊本部と特種砲隊、第一、第二、第三の三つの大隊で構成。山田支隊の増援に向かったのは第三大隊でした。第三大隊には第九、第十、第十一、第十二の4中隊と機関銃隊があり、先発組として第十、第十一中隊、機関銃隊が山田支隊増援に向かいました。


 〇大分連隊本部 陣中日誌 2月19日付 
 午後2時(浦潮派遣)軍司令官より電報あり
 「本月10日頃より『ブラゴエ(ブラゴヴェシチェンスク)』東方地区に数千の過激派蜂起し、山田支隊及び高橋支隊はこれを討伐中にて黒河守備隊は主力をもって増援せり」

 〇第三大隊本部 陣中日誌 2月20日付
 本日(20日)午後(十二)師団より命令あり
 「田中少佐は明21日来着する第十、第十一中隊並びに機関銃隊を指揮し、第十二旅団の増援として『サビタヤ』方向に出動すべし。第九、第十二中隊は不日『ブラゴエシノチェンスク』に向かい出発せしむ」

 ちなみに大分連隊などの位置関係を整理すると、連隊本部はウラジオストクに近いニコリスクに、第三大隊本部はハバロフスクに、第三大隊の第十、第十一中隊はニコリスクとその北方のスパスカヤにそれぞれ駐屯していました。

 第三大隊の陣中日誌の「明21日来着」とはニコリスクとスパスカヤにいる第十、第十一中隊がハバロフスクに到着するとの意味だと思われます。



 

 上の地図はアジア歴史資料センターのホームページからダウンロードした資料「西伯利(シベリア)派遣軍作戦経過概見図」に筆者が地名を書き込んだものです。

 あらためて地図を見ると、日本の派遣軍は鉄路に沿って広大なシベリアにポツンポツンと点在していたことが分かります。

 大分連隊第三大隊第十、第十一中隊、機関銃隊で構成する田中支隊(支隊長・田中勝輔少佐)に出動命令が出たところまで書いてきました。

 少し長くなりましたので、この続きは次回にしたいと思います。
 

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